
井之頭学園創立者
藤村トヨ
藤村トヨは、本学園の創立者というだけでなく、
わが国における女子体育のパイオニアであり、
女子教育近代化の先駆となった女性である。
藤村トヨ 略年譜
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1876
明治9年
香川県の商家に生まれ、師範学校に学ぶ
トヨは、明治9年(1876年)6月16日、香川県阿野鵜足郡坂出村内浜(現・坂出市白金町)に生まれた。父藤村九平は塩・砂糖などを取り扱う裕福な商人であった。生まれつき利発で記憶力にすぐれたトヨは、教育熱心な母親のもとで徹底した知育偏重の家庭教育を受けた。そのため、学問において最も大切な十代から二十歳にかけては病弱であったという。
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1895
明治28年
病気療養を機に、女子体育教育の道へ
成績優秀で、明治 28 年には香川県立師範学校に入学するが、体調を崩し1年で中途退学。同32年には東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)本科理科に入学するも、これも病気のため中途退学。その後郷里で療養しながら付近の小学校で体操や遊戯、ダンスを教えているうちに次第に健康を回復した。この経験から、理論に基づいた体操やダンスの効力に目覚めたトヨは、体操教育や教育としてのダンスに傾倒し、やがて女子体育の道に一生を捧げようと決心する。元々医者の道を目指していたトヨにとって、女子体育教育は、医学にも勝るとも劣らない、人間が人間らしく生涯を健康に生きるために欠かせないものであった。
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1903
明治36年
女性として、国内二人目の体育教員に
明治36年、女性として2番目に文部省の体操科教員検定試験に合格。トヨ27歳であった。翌年には、体操科教員として、恩師である高橋忠次郎が校長を務める東京女子体操音楽学校(現在の東京女子体育大学/短期大学)に就職する。高橋忠次郎は、女子の体操に音楽を融合したリズミカル運動を提唱したが、これを軟弱とした当時の教育界から非常な圧迫を受けたため、志半ばで渡米してしまう。学校は存続の危機に陥るが、トヨら若き教員たちは再建に奔走し、危機を乗り越えた。その後、リーダー的存在だったトヨは、32歳の若さで校長に就任した。
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1921
大正10年
理想の教育の地に、吉祥寺の地を選ぶ
大正10年、東京女子体操音楽学校(現東京女子体育大学)は、新天地を求め、日暮里の仮校舎から武蔵野村吉祥寺に新校舎を開校した。当時の吉祥寺はまだ田舎の村であり、トヨは、緑豊かで水に恵まれたこの地を、理想の教育の地として選んだのだった。
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1928
昭和3年
ヨーロッパ視察とベルリン留学
昭和3年には、英独仏の体育状況を視察してドイツ体操に深い感銘を受け、ベルリン大学に短期留学した後、同大学の体育学教師ワルター女史を招聘しドイツ体操の普及に努めた。また、アムステルダム・オリンピック大会、ベルリン・オリンピック大会などを視察し、競技とスポーツにおける鍛練の意義を再発見している。
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1932
昭和7年
女子教育の理想を掲げ、井之頭学園開学
欧米視察を経てドイツ教育に共鳴したトヨは、昭和7年、女学校時代における母親の家庭教育を重視し、授業を半日とし午後は家庭に帰すという独特な方針のもとで、付属高等女学校を設立した。これが、本学園の前身、井之頭学園女学部である。トヨの女子教育への情熱は老いてますます強まり、学園の未来にも飽くなき夢を描いていたが、昭和30年1月18日、心筋梗塞のため逝去。享年79歳。葬儀にあたっては、生前の功労により天皇陛下より御供物が下賜された。

